アイドルと孤独-言葉と伝達とは

 

前々回の記事で「ツァラトゥストラ」内第二部『夜の歌』を取り上げた。

 

アイドルと【夜の歌】-「ツァラトゥストラ」を読んで - すぐにココロ文字で伝えたい

 

その記事を少し論文としての体裁を整えて貼り付けて、先日教授のもとへと向かい面談をしてみると(付け焼き刃にしては)好感触だったのでそのまま用いてみようと思う。その際に言われた言葉にとてもハッとさせられたので、ここにも残しておきたい。

 

「アイドルファンの方々もだけど、アイドルの方々もまた孤独かもね」

 

このことばに、どきりとさせられた。

教授はアイドルに全く明るいわけではなく(ただただ私の我が儘でこのテーマにしたために本当に申し訳ないことをさせていただいている自覚はあるのだが)そんな方からそういう言葉がぽろっと出てきたことにただただ驚いたのだ。 もちろん、一個人・人間としての孤独という指摘ではあるのだが、「職業・アイドル」だからこそより一層の孤独があるのではないだろうかという問題提議もうけた。阿部亮平 くん・岸本慎太郎くんの気象予報士試験に関する記事の中では彼らの葛藤や孤独に関して多少なりとも考えていたつもりが、いざ「孤独」という単語を目にした時にぱっとそれが浮かばなかった稚さに自己嫌悪してしまう。

 

さてその「孤独」という問題にフォーカスを合わせた『夜の歌』は本書の中でも最も暗く、最も感情的な章のひとつだ。語気は荒く、苦悩と孤独に苛まれたツァラトゥストラニーチェ自身ーの葛藤が非常に現れていて、荒れ狂う海のような激しさを見せている。その中で章の名前にもなっている「夜」のような静けさも感じる少々不気味な箇所だと私は感じている。

このえも言えぬ薄暗さを、深い愛を持ちながらも常に何かと戦っているように見えるアイドルファンの心理と重ねていた。しかしどうしてもツァラトゥストラのような超人へと歩む者との重ね方が分からず四苦八苦していた。私にとって贈り与える者はアイドルであり、受け取る者がファンだからだ。だがどちらか一方に重ねる必要はなかった。

なぜならば、ツァラトゥストラは人間であり、私達もアイドルも人間である。人間は動物から超人の狭間にいるのであれば、ツァラトゥストラに私達とアイドルの両方を重ねてしまっても構わないのではないか。という些か強引な結論に至った。当然論文に落としこむ時にはもう少し整理はするけども。

 

また、面談を受けて『夜の歌』だけでは少しだけ不十分だと感じたため、第三部の『快癒に向かう者』も参考にしたいと考えている。この章ではコミュニケーション・伝達・言葉の問題、各々の価値定立の問題が取り上げられている。アンケートの回答を見て、アイドルファンは多かれ少なかれ孤独を抱えているだけでなく、言語によってつながりを持ちたい生き物であると感じた*1ためこの章も重点的に読み込みたいと考えた。

わたしたちの求めることばの意味は、こうやってブログを書いたり日々Twitterで発信したりファンレターを送ったりという伝えることだけでなく、歌詞から何かを読み取ったり彼らの言葉を聞くことも含まれるのではないか。全てにおいて誰かの声を聞き誰かに声を届けたいものではないだろうか。

それが孤独を発端にしたものかどうかは一度置いておいたとしても、そういった伝達・コミュニケーションの問題はアイドルファン心理を分析する上で切っても切れないものだと考えられる。またアイドルにとっての授受もそうだ。ブログなどでの発信や作詞で自分の感情や考えを伝え、ファンレターや様々なところでの反響を聴くこと。アイドルサイドにだってそういったコミュニケーション・伝達・言葉の問題は当然存在する。

そのためこれからは『快癒に向かう者』もあわせて考察してゆく。

 

言葉があり、そのひびきがあるということは、なんといいことだろう。言葉とひびきとは、まったくかけ離れたものを結ぶ虹であり、幻の橋ではないだろうか?(後略) 「ツァラトゥストラ」『快癒に向かう者』より 

 

しっかりとした考察をするのはまた今度。

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

 

 

*1:これに関しては後日1記事にしたい